againstである勇気
昨日は被曝してきました。(って、シャレにならないですね。。(^^ヾ)
中央区の保健所で定期健診。結核患者の介護をした人は、2年間は検査が必要なんだそうです。
(担当の古川さん、いい人だったなぁ。感謝です!)
あるささやかな1日 |
放射能と言うと、悲しいことに日本人の誰もがイメージしてしまうのは「ヒロシマ・ナガサキ」。
平和のために使われるべき技術が、もっとも間違った形で使われてしまった事件。
先日、毎日新聞の記事に、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの乗組員だった方のインタビューが載っていましたが、この方はオバマ大統領がプラハで「原爆使用国としての道義的責任」に触れたことを批判し、相変わらず「当時の状況では原爆投下は正しかった」とする主張を続けていました。
人は正義の名の下に残忍になる。
人がもっとも醜い残虐性を表すときは、心の中に残酷さを秘めているからじゃない。
正義の名の下に、何かに忠誠を示すために残虐になるもの。
彼らは追い詰められてとっさに投げてしまったんでもない。
国の命令に従って、上空から悠々と原爆を投下した。
64年を経ても考え改めることができない、この恐ろしい「正義」って。。
心の中では、被爆の現実がショックで耐え難いのかもしれない・・。
でも、この人が「正しかった」と主張することが、被害に遭われた方たちをどれほど傷つけ、怒りを新たにさせてしまうことか。
私たちはみんなヒトだから、揺れたり曖昧だったりして当たり前。
お互い考えが違っていても当たり前。
でもその主張が国だとか組織だとか仕事だからを楯にした時、思いもよらない残虐性が顔を出しているかもしれない。
道義は、この世で生きる私たちみんなが、日々意識しなければならないこと。
時にはagainstである勇気も必要。
誰もが平等に幸せを目指していいこの世だからこそ、道義をわきまえて、しっかり日々を生きたいな。